景正鍛刀場

コラムColumn

武道と日本刀

日本の歴史、文化の主要な部分を800年以上にわたって担ってきたのは紛れもなく武士達でした。

武士は当然、武をになう者で、平安鎌倉時代には、騎馬の鎧武者による互いに矢をつがえあってすれ違いざまに射掛け合う、一騎打ちが戦いの主なスタイルであったと伝わっています。

むろん往時の詳細は知る由もないけれど、命のやり取りの場でそんなにきれいな一騎打ちでの戦いが常態であったとは信じがたく、夜討ち朝駆け、分捕りの乱戦で、太刀を抜いての斬りあい、突きあいも少なく無かったのではないかと想像されます。

現存する平安、鎌倉期の太刀も騎乗で使うに適した長寸で反りの高い重量感ある太刀から、やや細身で後世の刀に近い長さ、反りの比較的浅いものまでバリエーションがあります。ですから当時の様々な戦いのシーンも想像できるのです。
むろん武者達の戦い方は実戦に即していますから、距離のアドバンテージは絶対です。 弓の名人は侍の世が続く限り一目おかれたものでした。

現在伝わっている剣術、柔術など古流武術、古武道と称されるもののほとんどは、江戸時代に端を発するもので戦国時代にまでさかのぼるものは稀なようです。

そもそも武者達の戦いは、元寇(モンゴル支配下の中国元王朝の日本侵攻1274年文永の役、1281年弘安の役)で鎌倉武士が大苦戦した集団白兵戦以降大きく様変わりし、さらに槍、そして鉄砲の登場によってさらに決定的に変化してゆきました。

個々の戦闘能力の高低はその戦闘の大勢を決する要素ではなくなり、装備と戦法、戦闘人員の多寡が兵力を決める時代となったのです。したがって戦国時代までは精妙な剣術、槍術が求められてはいなかったと思われます。
時代が少し落ち着いた戦国末期、桃山期になって初めて剣豪の活躍する場が生まれたものでしょう。

合戦相次ぐ中では個々の剣を取っての戦いが強いとか相撲が強いとかは、サムライとしての大事な要素ではあったかもしれないけれど、胆力、知力のほうがより重要視され、腕っぷし、ケンカの強さだけで出世した人物はあまりいなかったようです。
しかし天才的な剣豪、剣客が剣を取って戦う、そのことを追求し、それがやがて人間の可能性を大きく進化させる「道」として、侍の重要な教育項目として認知されていったのでした。


安定した江戸時代に、武道は一気に花開きました。

日本刀の姿、様式の変化にその時代の武者、侍の気質、価値観は明確に伝わります。
日本刀には「刃文(はもん)」という、鋼に美しさと強さ、鋭さをもたらす世界のどこの刀剣にもない特性があります。その個性に富んでいることは、まさに驚くばかりです。
その時代その時代、その地方(国)に好まれた刀もまた様々で、姿刃文、地鉄(じがね、素材である鋼。鍛錬方法、元々の産地の異なる鉄によっても様々な特質が見て取れます)この1000年間に何百万振りという日本刀が作られてきましたが、ただの一振りも同じものはありません。

ここに日本刀のもう一つの側面、世界唯一、美しさを競ってきた武器であるということがあります。この美に多くの武人が魅せられて様々な逸話を残しています。

日本刀が日本の武人の求めに応じて作られてきたのは疑いのないところですから、日本刀を知ることはすなわち侍の精神と肉体を直接的に知ることに他ならないと思います。

日本武道は日本刀という侍にとって最も身近な武器を操作する、剣術を中心に発達してきたのも当然のことでしょう。
日本刀と、日本武道を追求し続ける私、松葉景正はこの偉大な精神遺産を後世に伝えてゆくべくこれからも努力してまいりたいと思います。